古いアルバムを見たせいか、最近は小さい時のいろんな人を思い出すんですよね。。

これまであんまり思い出すこともなかったのですが、ヒマになったのか考え事が増えたのか、

よく分からないのですけども、そこまで深く考えることはないにしても、

あの時のあの人ってそういえばどうなったんだろう?とか、

天国で元気にしているんだろうかとか。ちょっと思い出したりします。


たくさんいますし、もちろんどの人も大切な人なのですが、とりあえず思いつくまま書いてみようかな。


(もし書かなくなったら、そこからはなんとなく前向きになれてる証拠なんだと思うw)




・ハンバーガー屋のおにいさん

私が小学校3,4年生くらいかな。。

小さいときに、移動販売車でよくハンバーガーを手売りに来ていたお兄ちゃんがいまして。

20代半ばくらいだったのかな。。

私は必ずテリヤキバーガーを注文してたので、お兄ちゃんからは

『テリヤキの子・あっちゃん』と呼ばれていました(笑)


来るたびに買いに行っては、作ってもらってる途中にお兄ちゃんのお話を聴いていました^^

お兄ちゃんの夢を私がずっと聴いては、ただただうなずくだけの会話だったのですけども、

いつか必ずお店をオープンさせたい!っていうことを言ってました。

(このときから聞き上手)

で、結局そのお兄ちゃんはどうなったかっていうと、

少し遠い場所でしたけど数年後にお店をオープンさせたんですね(^o^)/

最後にお話したとき、私は小学校6年生くらいでしたけども、そのときの言葉を今もなお覚えています。。

「ついに夢が叶うよ!あっちゃん、ついに来月からお店を○○でオープンさせるよ。しばらくもう会えなくなるけど、待ってるから必ず遊びに来てよ。」


そして新しい名刺と雑貨のプレゼント、ハンバーガーをプラスで2個もらったんですね。

知ってたらこっちが準備したのに、しかもいきなりのお別れでしたもんだから思わず泣いてしまったのを覚えています。。

味付けがとても美味しくて、正直マ○クのハンバーガーを食べるくらいだったらこのお兄ちゃんのを!っていつも思ってまして、人柄もあってファンだったんですね^^

お店も商品も販売方法も人柄も思い通りにコントロール出来てたってことなんだと思います。

だけどきっと苦労はものすごくしてたと思う。でも、だから憧れた。

ちっこい車でコツコツやってきて、それでお店を作るなんてすごいことだと思ったんです。


私は残念ながらその後引っ越してしまい、とうとうそのお店に行くことは出来ませんでした。

それから10年後くらいかな、お店の場所の近くを通ることがあってしばらくウロウロと探してみましたが、どうしても見つかりませんでした。

でも、今でもきっとどこかにあるはずだと思ってます☆





・母方の祖父



母方のおじいちゃんは元・警官でした^^

ただ警官といっても、10年勤めてはいなかったみたいです。

おじいちゃんは警官からタクシー会社の事故折衝役に転職したのですけども、

警官時代の話をおばあちゃんからよく聞かされてました。


おじいちゃんは、お仕事帰りによく飲み屋さんで一杯引っ掛けて帰るような、

いわゆる昭和真っ只中のよくある光景の中で、

そこで始まるケンカを仲裁してはいつのまにか自分も加わって一緒に暴れていたそうです(爆笑)

当時の北九州はあちらこちらの煙突から煙がたくさん出ており、

100万都市と言われ誇らしくはありましたけども、都会というよりは労働者の街。

『今日は素敵な夜景をみようか・・・』

というより、どちらかというと、

「なんじゃこらー!ボケー(-_-メ)」

が飛び交う街です(笑)

そのぶん、お祭りはどこの地域もすごい!

どんな小さなお祭りでも、どこにいっても盛り上がってたんですね。

(その辺、当時は日本全国どこでも一緒かもなんですけどw)

正直、活気も物凄かったですし、

商売繁盛!家内安全!地域清掃!競馬競輪!

などというあらゆる4文字熟語がぴったり合うところでしたね^^

そんなところのCOPでしたから揉め事は日常茶飯事だったらしいですが、

おじいちゃん自身も警官時代の話をよくしていたので、私もその気になっていったのを覚えています。

(またまた聞き上手)


ちなみに母方の祖父は意外と若かったんですね。

私と40歳も離れていません。

なのでお父ちゃんみたいなものです。

祖母も36歳しか離れてませんし、私と母も20歳しか離れてません。

当時、祖母が「母」と間違われ、母は「姉」と思われていました。


私がタラちゃんですとまるでサザエさんみたいな感じなのでしょうが、

母たちも3人姉妹でして、、、

そう、つまり祖父以外全員女、しかも全員気が強く、

祖父はどうしても小さくなってしまい、混沌が今もなお続くという、

カオス・オブ・THE サザエちゃん(邦名「裏サザエさん」)みたいな構成です。

サザエさんのような、あんな家庭平和を維持するためには、

波平さんのようなお父さんってやっぱり必要なんだなーって、

常々そう思ってしまいます(笑)・・・ちなみに父方はそうでしたけどね^^


母方おじいちゃんは、競馬競輪に忙しい本物のお父ちゃんの代わりに、私をずいぶん大切にしてくれました^^

ただ大切にしてくれた分、私はおじいちゃんの一杯飲み屋にはよく付き合わされてはいましたww

当時は酒屋さんでコップ酒をよく出してくれてたんです。

(それを水のように一気に飲むのが昭和の男w)

今でもたまにですけど、昔ながらの酒屋さんではそういった光景を見ることできますね^^

2~3人くらい爺さんがそこに集まってクイっ!と一杯どころかベロンベロンになるまで飲んでるみたいなw

(そして必ず絡んでくる、みたいなw)

祖父は、ギャンブルこそあまりしなかったのですが、とにかくお酒が大好きな人でしたから。

ただ、警官を辞めてからのおじいちゃんの人生は、いろいろと大変だったのは私の目からみても明白でした。

今考えると、お仕事の悩みが多くて、それを誰にも話せなかったんだと思います。

事故の折衝役なんてね、それだけ誰もやりたがらない、難しいお仕事だったんだと思います。

事故の相手が善人とは限らないですし、それこそ脅しもあるわけでしょうから。

(なんてったって北九州ですw)


私はよく祖父のひざの上に乗せられては頭をなでられ、誰よりも一番に私を愛してくれたものです。

私が引っ越すときの別れ際、ひざをついて泣きながら見送る祖父を見てしまい、

あれほど別れというものを悲しんだことはありません。

その後1時間以上は私も泣き続けた覚えがあります。



そういえば昔はよく『将来の夢』っていうのを学校で書かされていましたよね^^

私はそこに、警察官とタクシーの運転手って書きました。

自分自身、警察官やタクシーの運転手になった私を想像していたわけではなく、

ただただ祖父を喜ばせたかったんだと思います。


私が転校して、それから8年後に祖父は亡くなりました。

ただ亡くなる直前に会えたのは幸いでした。

肝硬変がすでに進行し手遅れで記憶もほとんどなくなっており、誰も認識出来ないと聞かされていたのですが、

手を握ってきてウンウンとうなづいていたのを覚えています。

もう言葉はいえない状態でしたが、息を引き取る前に、祖母に

『今までありがとう』

と伝え切ったそうです。

祖母も苦労をしましたが、状態を考えると本当にびっくりしたようで、

それだけが救いであったということは当時言っていました。


余談ですが、おじいちゃんの逸話というか、戦時中は学徒水兵でして長崎に就役していたときのお話。

そこであの原爆に遭遇したそうです。

私と祖父が住んでいた小倉周辺に落とされるはずだった原爆ですね。

爆心地から900m。

原爆手帳にそう書いてありましたが、長崎の原爆は中心地から半径1000m以内はほぼ壊滅状態だったと聞きます。

・・・ホントに900m以内にいたの?って疑問だったけど、

ちょっとしたケロイド状態のヤケドがあっただけで、ほぼ無傷です。

そのケロイド火傷跡で認定されたんでしょうね。

病院にいたらしいのですが、爆発の瞬間から記憶はなくて、

気づいたら自分の頭の上に衣類などが入ったトランクケースが置いてあったとのこと。

誰かが祖父の無事を確認して、それを置いてどこかへいったのでしょう。

それを持って、しばらくさまよいながら生き延びたそうです。


不幸中の幸いなのかも知れません。

あと数メートルか数十センチか、

ほんのちょっと窓側にいたら爆風と熱線で生きてはいなかったのですから。

それがなんとか生き延びて、それで今こうして私たちがいます。

そう考えると、命の尊さというか、生まれるべきその確率というのは奇跡に近いものだと信じることが出来ます。


祖父は周囲から、何かとお酒に弱い、そして甲斐性が無い人と捉えられがちでした。。

自分のことしか考えていないのでは?と言われても仕方のない素行も多かったです。

お酒飲んで暴れたりとか。

たしかに、誰かからの愛情を欲しがっていたのかも知れない。

昭和の日本のお父さん、っていう感じでは決してなかったから、

周りからは情けない人と捉えられきっと悩んでいたと思う。

そんな悩みを打ち明けてもいいという環境もなかったと思うし。


でもね、その分愛情を、誰かに目一杯注ぐことは出来たわけです。


一方、吟遊詩人をしたり、居合い抜きをしたり、映写会をしたり、骨董品の鑑定(笑)をしたりと芸達者な一面もあり。。

私から見た祖父は、ものすごく繊細な人でした。


今の時代に生きてるのなら、もう少し長生き出来たんだろうなって思います。






つづく。